記憶の地政学:中国による第二次世界大戦史の「改善」と戦後秩序への挑戦に関する包括的分析報告書

AI分析カテゴリー
  1. 1. 序論:戦略的資産としての歴史
  2. 2. 抗日戦争の再定義:「八年」から「十四年」への戦略的転換
    1. 2.1 タイムライン変更の国内政治的論理
      1. 2.1.1 「中流砥柱(大黒柱)」としての共産党の強調
      2. 2.1.2 東北抗日聯軍の英雄化と楊靖宇の象徴性
    2. 2.2 国際的な「戦勝国」地位の再確認
      1. 2.2.1 「世界反ファシズム戦争」の始点としての中国
    3. 2.3 歴史的ニヒリズムとの闘争と法制化
      1. 2.3.1 英雄烈士保護法(2018年)
  3. 3. 日本の戦前戦中時の対応と「満州」の記憶
    1. 3.1 満州国と「偽満」のナラティブ
      1. 3.1.1 731部隊と生体実験の記憶
    2. 3.2 南京大虐殺と数字の政治学
  4. 4. 日本敗戦後の取り組みと戦後秩序への挑戦
    1. 4.1 ODA(政府開発援助)の「不可視化」と歴史認識
    2. 4.2 東京裁判史観への批判と「未完の正義」
    3. 4.3 「カイロ・ポツダム体制」対「サンフランシスコ体制」
  5. 5. 領土野心と貿易の観点:歴史の武器化
    1. 5.1 南シナ海と「九段線」の歴史的起源
    2. 5.2 台湾統一と「未完の内戦・抗戦」
    3. 5.3 貿易と歴史の融合:エコノミック・ステイトクラフト
      1. 5.3.1 2010年 レアアース輸出規制(尖閣諸島漁船衝突事件)
      2. 5.3.2 2023年 日本産水産物全面禁輸(ALPS処理水放出)
    4. 5.4 「債務の罠」批判への反論としての歴史
  6. 6. 総合分析:なぜ今、歴史を「改善」するのか?
    1. 6.1 体制の正当性の「再充電」
    2. 6.2 米国主導の秩序への挑戦権
    3. 6.3 日本に対する恒久的な優位性
  7. 7. 結論
    1. 付録:主要参照資料・データ一覧
      1. 1. 歴史教科書・認識変更関連
      2. 2. 戦後秩序・領土問題・法的枠組み
      3. 3. 経済的威圧・ODA・貿易
      4. 4. 国内法・歴史的ニヒリズム
      5. 引用文献

1. 序論:戦略的資産としての歴史

東アジアの現代地政学において、歴史は単なる過去の記録ではなく、政権の正当性を定義し、外交的レバレッジを行使するための動的な「作戦領域」である。中国共産党(CCP)の指導下にある中華人民共和国(PRC)にとって、第二次世界大戦(中国呼称:抗日戦争)の歴史と、それに続く戦後秩序の解釈は、政権存立の基盤であると同時に、対外的なパワープロジェクションの中核的要素となっている。

本報告書は、なぜ中国が第二次世界大戦前後の歴史を積極的に「改善(改変・再解釈)」しているのかという問いに対し、提示された以下の3つの視点を軸に、多角的かつ徹底的な分析(約15,000語規模)を行うものである。

  1. 日本の戦前戦中時の占領地への対応の観点:特に「満州」および占領地における日本の施策と、それに対する中国側の「14年戦争」論への転換の整合性。
  2. 日本敗戦後の取り組みに対する観点:事実上の戦後賠償としての日本の政府開発援助(ODA)、東京裁判史観への挑戦、およびサンフランシスコ講和条約体制の否定。
  3. 中国の領土野心と貿易の観点:歴史的正当性を根拠とした領土主張(台湾、尖閣諸島、南シナ海)と、歴史認識問題を武器化した経済的威圧(エコノミック・ステイトクラフト)。

分析にあたっては、中国共産党が推進する「歴史的ニヒリズム」への対抗キャンペーン、教科書改訂、法的枠組みの再定義といった具体的な事象を詳細に検討し、これらが単なる学術的な修正ではなく、明確な政治的意図を持った国家戦略であることを論証する。


2. 抗日戦争の再定義:「八年」から「十四年」への戦略的転換

2017年1月、中国教育部は小中学校の歴史教科書における「八年抗戦」(1937年-1945年)という呼称を、「十四年抗戦」(1931年-1945年)に全面的に改めるよう通達を出した1。この変更は、戦争の始点を1937年の盧溝橋事件から、1931年の満州事変(柳条湖事件)へと6年遡らせるものである。

2.1 タイムライン変更の国内政治的論理

この歴史修正の最大の動機は、中国国内における共産党の正統性を強化することにある。従来の「八年抗戦」の枠組みでは、1937年の全面戦争開始以降、蒋介石率いる国民党(KMT)軍が「正面戦場」で日本軍の主力と戦い、国力の消耗を強いられたという事実が中心とならざるを得なかった4。客観的な史実として、国民党軍は上海、武漢、長沙などで大規模な会戦を展開しており、共産党軍(八路軍、新四軍)は主に「敵後方」でのゲリラ戦に従事していたからである。

しかし、「十四年抗戦」へと枠組みを拡大することで、物語の重心は劇的に変化する。

2.1.1 「中流砥柱(大黒柱)」としての共産党の強調

1931年から1937年までの「満州」における抗日闘争を戦争の正規期間として組み込むことで、共産党は自らを「最も早くから日本軍と戦った勢力」として位置づけることが可能になる1。当時、国民党政府は「安内攘外(国内の共産党討伐を優先し、対日抵抗は後回しにする)」政策を採り、満州事変に対して不抵抗の方針を示していた6

対照的に、中国共産党は満州事変直後に抗日宣言を発し、満州において**東北抗日聯軍(NAJUA)**を組織してゲリラ戦を展開した7。この部隊は、楊靖宇(Yang Jingyu)や趙尚志(Zhao Shangzhi)といった共産党員が指導的地位を占めていた9

比較項目

八年抗戦史観 (1937-1945)

十四年抗戦史観 (1931-1945)

開戦の起点

1937年7月7日(盧溝橋事件)

1931年9月18日(満州事変)

主たる敵対行動

日本軍の中国本土全面侵攻

日本軍による満州全土の占領・傀儡化

初期の主役

国民党軍(正面抵抗)

東北抗日聯軍(共産党指導下のゲリラ)

国民党の評価

徹底抗戦の主体だが腐敗・無能

「不抵抗政策」で国土を失った消極的抗戦者

共産党の評価

後方支援・遊撃戦

最初期から民族の存亡をかけて戦った「先駆者」

このように期間を延長することで、共産党は国民党が「逃げ回っていた」時期に、すでに民族の存亡をかけて戦っていたという道徳的優位性を確立する。これは、習近平政権が掲げる「中国共産党こそが抗日戦争の中流砥柱(中核的支柱)である」というナラティブを補強する強力な歴史的根拠となる6

2.1.2 東北抗日聯軍の英雄化と楊靖宇の象徴性

教科書改訂と連動して、近年、東北抗日聯軍の活動は極めて大きく取り上げられるようになった。特に楊靖宇将軍の最期――弾薬と食料が尽きるまで戦い、死後に日本軍によって解剖された際、胃の中には樹皮と綿しか入っていなかったという逸話――は、共産党員の不屈の精神(鉄血精神)の象徴として教育現場で強調されている9

楊靖宇らの活動を「局地的な抵抗」から「国家間の戦争の一部」へと昇華させることは、中国共産党が「満州国」という日本の傀儡国家統治下においても、正統な中国の主権を代表して戦っていたという主張を裏付ける。これは、当時の日本の占領政策(治安維持、集団部落など)がいかに過酷であったかを強調しつつ、それに対抗し得たのは共産党の精神力のみであったというストーリーを構築する10

2.2 国際的な「戦勝国」地位の再確認

「十四年抗戦」への転換は、対外的なメッセージ、特に対日・対米関係における戦略的意図も含んでいる。

2.2.1 「世界反ファシズム戦争」の始点としての中国

中国は、第二次世界大戦の始点を1939年のドイツによるポーランド侵攻ではなく、1931年の日本の満州侵攻に置くべきだと主張している3。これにより、中国は「世界で最初にファシズム勢力と戦った国」という地位を確保する2

この歴史解釈の変更は、以下の外交的利益をもたらす。

  1. 国際秩序形成者としての発言権: 中国は単なる被害者ではなく、連合国の勝利に最も長く、多大な犠牲(死傷者3500万人超)を払って貢献した主要プレーヤーであると主張し、戦後国際秩序(国連体制など)における主導権を正当化する1
  2. 対日圧力の永続化: 戦争期間が長くなることは、日本の侵略行為の期間と範囲が拡大することを意味し、日本に対する歴史的・道徳的負債を増大させる。これは、歴史問題を外交カードとして使用する際の効果を高める2

2.3 歴史的ニヒリズムとの闘争と法制化

この歴史改変を定着させるため、中国政府は法的な強制力を動員している。

2.3.1 英雄烈士保護法(2018年)

2018年に施行された「英雄烈士保護法」は、国家が認定した英雄や烈士の事績や精神を歪曲、中傷、否定する行為を刑事罰の対象とした12

  • 適用事例: インターネット上で「狼牙山五壮士」などの共産党の戦争英雄の実在性や行動を揶揄したブロガーや、朝鮮戦争における「氷彫刻連隊(長津湖の戦いで凍死した兵士たち)」の作戦指揮を批判した元ジャーナリスト(羅昌平)などが、この法律に基づき処罰されている13

習近平総書記は、「歴史的ニヒリズム(共産党の正史に異を唱える歴史観)」がソビエト連邦崩壊の主要因であったと分析しており、歴史の統制を「政権の安全保障(Regime Security)」の問題として捉えている15。したがって、14年戦争論や共産党主導論への異論は、単なる学術論争ではなく、国家転覆の試みとみなされる。


3. 日本の戦前戦中時の対応と「満州」の記憶

中国が歴史を「改善」する背景には、戦前・戦中の日本による占領地行政、特に満州国における実態と、それをどう記憶するかという問題が深く関わっている。

3.1 満州国と「偽満」のナラティブ

中国の公式歴史観では、満州国は一貫して「偽満(Wei Man)」と呼ばれ、日本の傀儡政権による不法な軍事占領状態であったとされる5。14年戦争論の採用は、この時期(1931-1937)を満州における「植民地化の深化」の時期としてではなく、「侵略戦争の第一段階」として再定義するものである。

3.1.1 731部隊と生体実験の記憶

日本の占領地対応の中で、中国が近年特に強調し、国際的な発信を強めているのが731部隊(関東軍防疫給水部)による人体実験である11

  • 残虐性の象徴: 凍傷実験、生体解剖、細菌戦などの詳細な描写は、日本の占領が単なる領土的野心だけでなく、中国人を「マルタ(丸太)」として非人間的に扱った人種主義的・ジェノサイド的な性質を持っていたことの証拠として提示される18
  • 戦後の免責: 中国側のナラティブでは、731部隊長である石井四郎らが、実験データと引き換えにアメリカから戦犯訴追の免責を受けたことが強調される17。これは、「東京裁判の不完全性」や「アメリカのダブルスタンダード」を批判する材料として機能し、現在の日米同盟の道徳的基盤を揺さぶるために利用されている。

3.2 南京大虐殺と数字の政治学

南京大虐殺(1937年)は、日本の残虐性を象徴する最大の事件として位置づけられている。中国政府は「30万人の犠牲者」という公式見解を譲らず、これを否定する日本側の言説(数万人説や戦闘行為説など)を「歴史の歪曲」として激しく攻撃する4

  • 国家追悼日の制定: 2014年、中国は12月13日を南京大虐殺犠牲者国家追悼日と定めた。これは習近平体制下で、戦争の記憶を国家儀礼の中心に据え、国民統合のツールとして制度化したことを意味する。

4. 日本敗戦後の取り組みと戦後秩序への挑戦

中国の歴史修正主義は、1945年の日本の敗戦以降の処理、すなわち「戦後秩序」の正当性を巡る闘争へと拡張されている。ここでは、日本による戦後処理(ODAなど)への評価と、国際法的な枠組み(サンフランシスコ体制)への挑戦が分析対象となる。

4.1 ODA(政府開発援助)の「不可視化」と歴史認識

日本は1979年から2022年まで、対中ODAとして総額3兆6600億円以上を供与し、北京首都国際空港、上海浦東空港、鉄道網、環境対策など、中国の近代化インフラの根幹を支えた20

しかし、中国政府はこの事実を国民に対して積極的に周知せず、むしろ「不可視化」する傾向にあった。

  • 賠償の代替としての認識: 中国側(特に指導層)は、1972年の国交正常化時に戦争賠償請求権を放棄した経緯から、ODAを「事実上の戦後賠償」と捉えていた21。したがって、感謝する必要はなく、日本が当然払うべき「罪滅ぼし」であるという認識が底流にあった。
  • 教育における不在: 歴史教科書や愛国主義教育拠点では、日本の侵略と残虐行為が詳細に教えられる一方で、戦後の日本の平和的貢献や経済支援についてはほとんど触れられない11。この情報の非対称性が、経済発展後も対日感情が好転しない構造的要因となっている。
  • 「歴史の重荷」論: 中国の外交官は、歴史問題が解決されない限り、どれだけ経済協力が進んでも両国関係の「重荷」となると繰り返し主張してきた22。これは、経済援助と歴史認識を切り離して評価することを拒否する姿勢である。

4.2 東京裁判史観への批判と「未完の正義」

中国は当初、東京裁判(極東国際軍事裁判)の結果を受け入れていたが、近年ではその限界を指摘し、「正義は完遂されていない」というナラティブを強化している17

  • 昭和天皇の免責: 天皇が訴追されなかったことが、日本社会が戦争責任を曖昧にし、真の反省を欠いている根本原因であるとする議論が、中国の学術界やメディアで再燃している23
  • A級戦犯の合祀: 靖国神社へのA級戦犯合祀は、東京裁判の判決(侵略戦争の断罪)を日本が国内的に否定している証拠とみなされる。
  • 最近の動向: 山口大学名誉教授の纐纈厚(Atsushi Koketsu)らの見解を引用し、日本が侵略の責任を直視しない限り真の平和は築けないとして、東京裁判の意義を再評価しつつも、その不徹底さを日本の「右傾化」と結びつけて批判している23

4.3 「カイロ・ポツダム体制」対「サンフランシスコ体制」

中国の歴史再解釈の中で最も地政学的影響が大きいのが、戦後国際秩序の法的基盤に関する修正主義である。中国は、日本と連合国(中国を除く)が結んだ「サンフランシスコ講和条約(SFPT)」体制を否定し、「カイロ宣言」および「ポツダム宣言」に基づく秩序への回帰を主張している。

表2: 戦後秩序を巡る法的枠組みの対立

視点

カイロ・ポツダム体制(中国の主張)

サンフランシスコ体制(日米の立場)

主要文書

カイロ宣言(1943)、ポツダム宣言(1945)、日本の降伏文書(1945)

サンフランシスコ講和条約(1951)

法的性質

日本の降伏条件を定めた拘束力ある国際合意

戦争状態を終結させ、領土処分を最終決定した条約

台湾の地位

「満州、台湾、澎湖諸島」は中華民国(中国)に返還された25

日本は権利・権原を放棄したが、帰属先は未定(地位未定論)27

尖閣諸島の地位

台湾の付属島嶼として、カイロ宣言に基づき中国に返還済み28

南西諸島の一部として米施政下に入り、1972年に日本へ返還(SFPT第3条)27

中国の立場

これらこそが戦後秩序の根幹であり、SFPTは中国不在の「不法」な条約31

SFPTが国際法上の領土処分の基準であり、カイロ宣言は意思表示に過ぎない

この法的闘争は、単なる歴史論争ではない。中国がサンフランシスコ条約を無効化できれば、アメリカによる戦後のアジア太平洋における安全保障構造(米軍基地、日米同盟の範囲など)の法的正当性を根底から覆すことができるからである26


5. 領土野心と貿易の観点:歴史の武器化

中国の歴史修正は、具体的な領土的野心の正当化と、貿易を用いた他国への強制(エコノミック・ステイトクラフト)の道徳的基盤として機能している。

5.1 南シナ海と「九段線」の歴史的起源

中国は南シナ海の領有権主張において、「九段線(U字線)」を根拠としているが、これも第二次世界大戦の戦後処理と深く結びつけられている。

  • 戦後の「回復」: 中国の主張によれば、南シナ海の諸島(南沙・西沙)は日本に占領されていたが、カイロ・ポツダム宣言に基づき、戦後中華民国政府が軍艦を派遣して「回復」し、地図に線を引いた(当初は十一段線)とされる32
  • 歴史的権利: 中国はこの海域における「歴史的権利」を主張し、国連海洋法条約(UNCLOS)の解釈よりも、自国の歴史的経緯を優先させる姿勢を見せている。2016年の常設仲裁裁判所による判決(九段線の否定)を「紙くず」として拒絶した背景には、この「戦勝国として回復した領土」という強固な歴史認識がある。

5.2 台湾統一と「未完の内戦・抗戦」

「14年抗戦」への変更は、台湾問題ともリンクしている。共産党が抗日戦争の「中流砥柱」であったとするならば、抗日戦争の成果である「台湾の光復(日本からの返還)」の正統な継承者もまた共産党(PRC)となる。

  • 歴史的分離の否定: 台湾当局(特に民進党政権)が主張する「サンフランシスコ条約による地位未定論」や「台湾の歴史的主体性」は、中国側から見れば「歴史的ニヒリズム」であり、抗日戦争の成果を否定する「漢奸(売国奴)」的行為とみなされる25

5.3 貿易と歴史の融合:エコノミック・ステイトクラフト

中国は、歴史問題や領土問題で対立する国に対し、経済的威圧を加える際に「歴史的道義」を持ち出すパターンを確立している。

5.3.1 2010年 レアアース輸出規制(尖閣諸島漁船衝突事件)

2010年9月、尖閣諸島沖で中国漁船が海上保安庁の巡視船に衝突し、船長が逮捕された事件を受け、中国は日本へのレアアース(希土類)輸出を事実上停止した34

  • 歴史カードの発動: 事件当時、中国国内では「釣魚島は中国固有の領土」であり、日本の逮捕行為は戦前の帝国主義的横暴の再現であるというナラティブが展開された。レアアース禁輸は、公式には否定されつつも、実質的には「侵略者に対する正当な制裁」として国内世論に受け入れられた37
  • 結果: 日本産業界はパニックに陥り、船長は処分保留で釈放された。これは中国にとって、「歴史問題をテコにした経済制裁」が政治目的を達成しうる成功体験となった(長期的には供給源の多様化を招いたが)35

5.3.2 2023年 日本産水産物全面禁輸(ALPS処理水放出)

2023年8月、福島第一原発の処理水放出に対し、中国は日本産水産物の全面禁輸を行った38

  • ナラティブの結合: 中国当局とメディアは、処理水を「核汚染水」と呼び、これを日本の無責任体質と結びつけた。特筆すべきは、この文脈でしばしば日本の「過去の罪」(731部隊の細菌戦や毒ガス使用)が連想的に語られ、日本は「またしても」周辺国に毒を撒き散らすのかという道徳的非難が展開された点である39
  • 被害者意識の動員: 科学的根拠(IAEAの承認など)よりも、歴史的な不信感と被害者意識を動員することで、貿易制限を正当化した。これにより、日本の水産業(特にホタテ輸出)は大きな打撃を受けた40

5.4 「債務の罠」批判への反論としての歴史

一帯一路構想(BRI)に伴う「債務の罠」批判に対し、中国は自らの「半植民地」としての歴史を反論に用いている41

  • 論理構成: 「中国は列強による侵略と不平等条約の苦しみを誰よりも知っている。したがって、中国が他国に対して植民地主義的な搾取を行うことはあり得ない」というロジックである。歴史的な被害者としてのアイデンティティを、現代の経済進出における「善意」の証明書として利用している43

6. 総合分析:なぜ今、歴史を「改善」するのか?

以上の分析から、中国が歴史を改変・再解釈する動機は、単なる過去の清算ではなく、未来の秩序形成に向けた能動的な戦略であることが浮かび上がる。

6.1 体制の正当性の「再充電」

改革開放による経済成長というパフォーマンス・レジティマシー(実績による正当性)が、経済の減速とともに陰りを見せる中、習近平政権は「ナショナリズム」と「イデオロギー」に回帰している15。

14年戦争論によって共産党を「民族の救世主」として絶対化することは、一党独裁の永続性を担保するための「精神的な再武装」である。党の歴史への批判を法律で封じることは、統治の基盤を不可侵化する試みに他ならない。

6.2 米国主導の秩序への挑戦権

カイロ・ポツダム宣言を絶対視し、サンフランシスコ体制を否定することは、米国が主導してきたアジア太平洋の安全保障アーキテクチャ(日米同盟、第一列島線防衛)の法的根拠を崩すための「法戦(Lawfare)」である31。

中国は、「戦勝国」としての権利を最大限に拡大解釈することで、台湾統一や尖閣諸島、南シナ海支配を、現状変更ではなく「戦後秩序の回復(現状復帰)」として正当化しようとしている。

6.3 日本に対する恒久的な優位性

歴史問題を常に「現在進行形」の課題として維持することは、日本に対する外交的優位性を保つためのコストパフォーマンスの良い手段である。

  • 道徳的負債: 日本がどれほど戦後に平和的発展を遂げ、ODAで貢献しても、歴史認識問題(靖国、教科書、南京、慰安婦、731部隊)が存在する限り、日本は道徳的劣位に置かれる。
  • 再軍備への牽制: 中国は、日本の防衛力強化や憲法改正の動きを、常に「戦前の軍国主義の復活」というフレームで批判する46。14年戦争の悲惨な記憶を強調することは、国内外に対し日本の「危険性」を訴え、日本の「普通の国」化を牽制する世論戦の一環である。

7. 結論

中国による第二次世界大戦前後の歴史の「改善」は、国内的には共産党支配の正統性を盤石にし、対外的には既存の国際法秩序(サンフランシスコ体制)を無効化して中国中心の秩序を構築するための、極めて包括的かつ長期的な国家戦略である。

  • 占領地対応の観点: 満州事変を起点とする「14年戦争」への変更により、共産党を抗日の「中流砥柱」へと昇格させ、国民党の役割を相対化した。731部隊等の記憶を動員し、道徳的優位を確保している。
  • 戦後の取り組みの観点: 日本のODAなどの貢献を不可視化する一方で、東京裁判の不徹底さやサンフランシスコ条約の不法性を強調し、戦後処理が「未完」であるとの立場を崩さない。
  • 領土と貿易の観点: カイロ・ポツダム宣言を根拠に台湾・尖閣・南シナ海の領有権を主張し、歴史的怨念を燃料として経済的威圧(レアアース、水産物禁輸)を正当化する手段として利用している。

習近平時代において、歴史は「鏡」ではなく「武器」である。この歴史修正の動きは今後も加速し、特に台湾統一の機運が高まるにつれて、歴史的正当性を巡る日米中間の認知戦はさらに激化することが予想される。


付録:主要参照資料・データ一覧

1. 歴史教科書・認識変更関連

  • 6 CCPの歴史変更と正当性強化 (NuVoices)
  • 1 14年戦争への変更と教育部の通達 (The Diplomat)
  • 2 教科書改訂の詳細と習近平の意向 (People.cn)
  • 3 14年抗戦の公式発表と理由 (Xinhua)
  • 11 教科書内容分析:共産党の役割強調 (Cortland.edu)
  • 9 楊靖宇と東北抗日聯軍の英雄化 (Xinhua, MOJ)

2. 戦後秩序・領土問題・法的枠組み

  • 25 カイロ宣言・ポツダム宣言と台湾の地位 (Taiwan Ministry of Foreign Affairs, RFA)
  • 27 尖閣諸島とサンフランシスコ講和条約 (Oxford Public International Law)
  • 28 釣魚島の領有権主張とカイロ宣言 (PRC Foreign Ministry)
  • 31 サンフランシスコ講和条約と中国の立場 (Taipei Times, Wikipedia)
  • 26 南シナ海とカイロ宣言・戦後回復 (China US Focus, Trends Research)

3. 経済的威圧・ODA・貿易

  • 20 対中ODAの実績と中国側の認識 (MOFA Japan, Nippon.com)
  • 34 レアアース禁輸と尖閣諸島事件 (WEF, Cambridge, StratCom)
  • 38 処理水放出と水産物禁輸 (East Asia Forum, The China Project, Pulitzer Center)
  • 41 債務の罠外交と歴史的反論 (Wikipedia, Chellaney, Reddit)

4. 国内法・歴史的ニヒリズム

  • 12 英雄烈士保護法と歴史取締り (China Digital Times, Australian Outlook)
  • 15 歴史的ニヒリズムキャンペーンと習近平思想 (Asialink, Coda Story)
  • 17 東京裁判・731部隊・昭和天皇免責論 (Brill, Xinhua)

引用文献

  1. Why Did China Add 6 Years to the Second Sino-Japanese War? – The Diplomat, 1月 6, 2026にアクセス、 https://thediplomat.com/2017/01/why-did-china-add-6-years-to-the-second-sino-japanese-war/
  2. China revises textbooks with new time frame for anti-Japanese war – People’s Daily Online, 1月 6, 2026にアクセス、 http://en.people.cn/n3/2017/0221/c90000-9180598.html
  3. China to revise textbook language on anti-Japanese war – Xinhua | English.news.cn, 1月 6, 2026にアクセス、 http://www.xinhuanet.com/english/2017-01/10/c_135971083.htm
  4. China rewrites history books to extend Sino-Japanese war by six years – The Guardian, 1月 6, 2026にアクセス、 https://www.theguardian.com/books/2017/jan/13/china-rewrites-history-books-to-extend-sino-japanese-war-by-six-years
  5. Second Sino-Japanese War – Wikipedia, 1月 6, 2026にアクセス、 https://en.wikipedia.org/wiki/Second_Sino-Japanese_War
  6. How China’s leaders changed the history of the War of Resistance to bolster Party prestige, 1月 6, 2026にアクセス、 https://nuvoices.com/2023/07/07/how-chinas-leaders-changed-the-history-of-the-war-of-resistance-to-bolster-party-prestige/
  7. Northeast Anti-Japanese United Army – ecph-china – Berkshire Publishing, 1月 6, 2026にアクセス、 https://www.berkshirepublishing.com/ecph-china/2018/01/09/northeast-anti-japanese-united-army/
  8. Northeast Counter-Japanese United Army – Wikipedia, 1月 6, 2026にアクセス、 https://en.wikipedia.org/wiki/Northeast_Counter-Japanese_United_Army
  9. Party history shared by Xi: General Yang Jingyu, 1月 6, 2026にアクセス、 http://en.moj.gov.cn/2021-05/06/c_618491.htm
  10. Letter from China: Fire in the frost: Northeast China, memories of World Anti-Fascist War Eastern Front – Xinhua, 1月 6, 2026にアクセス、 https://english.news.cn/20250918/be1efb51b0734f5796360f68903e344f/c.html
  11. A Comparative Study of Chinese, Japanese and Korean History Textbook Accounts, 1月 6, 2026にアクセス、 https://web.cortland.edu/linlin/Scholarly_2010_NCSS_CUFA_WWII_Suh_Lin.pdf
  12. 英雄烈士保护法(yīngxióng lièshì bǎohùfǎ): Law on the protection of heroes and martyrs, 1月 6, 2026にアクセス、 https://english.court.gov.cn/2018-05/03/c_761606.htm
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  44. ‘Debt trap’ diplomacy is a card China seldom plays in Belt and Road initiative – The Japan Times, 1月 6, 2026にアクセス、 https://www.japantimes.co.jp/opinion/2020/09/01/commentary/debt-trap-diplomacy-bri-china/
  45. Ahead of Its Centennial, the Chinese Communist Party Frets Over Unsanctioned Takes on Its History | ChinaFile, 1月 6, 2026にアクセス、 https://www.chinafile.com/reporting-opinion/viewpoint/ahead-of-its-centennial-chinese-communist-party-frets-over-unsanctioned
  46. Escalating Japan-China Tensions: Insights from the Past and Prospects for the Future – CSIS, 1月 6, 2026にアクセス、 https://www.csis.org/analysis/escalating-japan-china-tensions-insights-past-and-prospects-future
  47. Do the Cairo and Potsdam Declarations “restore” Taiwan to China? – Radio Free Asia, 1月 6, 2026にアクセス、 https://www.rfa.org/english/news/afcl/fact-check-potsdam-05082023093502.html
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  49. New Law Criminalizes Slander of Historical Heroes – China Digital Times (CDT), 1月 6, 2026にアクセス、 https://chinadigitaltimes.net/2018/04/new-law-criminalizes-slander-of-historical-heroes/?amp

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